2015年05月

2015年05月15日

雑記(高見)

 私は東京で生まれ育った。父は兵庫から、母は山梨から上京し、当たり前のように東京を終の棲家とした。だから、今東京に暮らしている人は、皆東京に暮らし続けるものだと、私はなんとなく思い込んでいた。遠く懐かしむ「故郷」に私は憧れるし、友人たちが正月や盆に帰省していくと、「帰省」も羨ましい。でも、それもこれも「皆東京に暮らし続けるものだ」という前提があるからだ。

知人や友人から「田舎に帰ることにした」という報を受けることが多くなった。帰省ではなく、東京から引っ越していってしまう、ということである。その瞬間、ものすごく引き止めたくなる。寂しいからだ。普段さほど気にもかけていなかったくせに、東京にいなくなるとわかったとたんに、寂しくなって慌てふためくのだ。近くに、会おうと思えばすぐに会える距離に、いてくれることが大事なのだ。いてほしい。一人も欠けずに。まあ、勝手な言い分だ。


 それから、それはその友人にとっても寂しい選択に違いないと勝手に決めつける。そんな寂しい選択をさせないために、自分に何かできなかったのかと勝手に思い上がる。なぜそんな決断をしたのだろうと勝手に想像を巡らせる。


 ひとしきり慌てふためいた後、全てが、ただの私の「勝手」だと気づく。私など、全く何の関わりもないことに気づく。苦笑して、「あーあ」と口に出してみたりして、それから、ゆっくりと、友人が「田舎に帰ることにした」ことを受け止める。


 今日は、棋士の張栩さんが帰郷することを知って慌てふためいている。田舎に帰るのとはだいぶ違う。異国に帰るのだ。



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