2014年10月
2014年10月30日
皆様のお越しをお待ちしております。


月日が経つのは早いもので、4月だ5月だ6月だと思っていたら、ちまたはもう年賀状が売られる季節に。
そして、次回かもねぎショット公演は、年末です!
12月26日(金)~29日(月)
クリスマスの翌日から晦日の前日まで。
どうか、今からカレンダーや手帳に印をつけていただけますように!!
久しぶりの、ザ・スズナリでの公演も楽しみですし、今回もまたヒトクセ・フタクセある魅力的な方々にご出演いただけるのも楽しみ。あれやこれや存分に楽しみたいと思っております。
チケット前売り開始は11月11日です。近くなりましたら、また、ご予約方法などをアップいたします。
2014年10月19日
中川安奈さんの訃報に接し、昨日はいろいろな思いが押し寄せました。
昨年のちょうど今ごろ、毎日のようにお会いして稽古していたこと、
本番中の劇場でのいたずらっこぶり、出演者たちをお宅に招いてくださり酵素ジュースをご馳走になったこと、自分が何もできなかったこと、「お友だちを、○○さんとしか呼べなくなってしまった」いきさつを話してくれたときのこと、客席の最前列でひざを抱えて見上げている安奈さんを見つけたときのこと、笑い声、『ロシアと20人の女たち』に出演していただいたときの「富士びたいです」や「日向さん」や……
とりとめもなく押し寄せて、一つ一つがどこにもたどりつかずに頭の中をぐるぐる回りました。
でも、気持ちは整理しなければなりません。どのように結着をつけてみても、そんなものは一人よがりだということは重々承知していても、それでも、おさめる引き出しに一つ一つをおさめ、安奈さんはもう生きていないということを受け止めなければ。
安奈さん。ありがとうございました。優しさも、美しさも、お茶目ぶりも、厳しさも忘れません。安らかにお眠りください。ご冥福をお祈りいたします。
2014年10月17日
6月のこと(高見)
毎年恒例となった、ダンサー黒沢美香さん企画の自炊棟を借り切った増富温泉湯治。今年も行ってまいりました。
今回は、演劇人は私と栗栖のみ(あ。あと、『エッシャーの家』に出演してもらった「てねちゃん」も数えたら3人!)。他の人々はほとんどダンサーです。
滞在中の一日は、こんな感じに過ぎました。
一同そろって朝食。(山登りチームは、とっくに朝食を済ませて山へ出発)
風呂。
吉沢恵さんの車でドライブ。「道の駅」のような店を3軒回って、夕食用の野菜やら土産用と乾物やらを買い込み、自炊棟に戻って簡単に下ごしらえ。
昼食。
夕飯支度。そして、夕飯。見よ、大量女性陣によるこの手作りのご馳走を。
ここから、充実の長い夜が続きました。
公門美佳さんに「ユル体操」を習い、なんだかほぐれた気分に。
高橋弘子さんの「ヤムナ・ボール・メソッド」の練習台。が、私のからだが固すぎて、練習台としては、ほとんど機能せず。本来ならボールに体を沿わせてストレッチをしていくわけですが、体がそわないので、「ボールの上に板が乗っかってる感じ。シーソーみたい」と見ていた人々。私が練習台の任務に真剣に取り組めば取り組むほど、周囲の人々は笑いころげていたのでした。
風呂。
てねちゃんを囲んで、UNO大会。2ゲームほど進んだところで、今年初参加の映像作家、崟(たかし)さんが「私がつくった映画の上映会をしますので、ぜひ観にきてください」と呼びにきてくださり、私たちは駆け足で大広間へ移動。
シーツを張ったスクリーンにて、上映会スタート。この『西天下茶屋・おおいし荘』は、温かくも衝撃的な作品でした。皆、今なにかを話すといろいろこぼれ落ちてしまいそう、というふうで、ことばすくなに、各自の部屋へ引き上げました。
このときすでに深夜12時。教わったり観せていただいてばかりでは恐縮なので、何か恩返しをと思い「1時間だけ囲碁教室を行いますので希望者はどうぞ」と声をかけ、集まった8名(間もなく2名が爆睡し6名に)を対象に入門教室を開催。予想をはるかに超えて夢中になってもらえ、「もう一回やりましょう」「そうですね、ではこんとは黒と白を交換して」などと、延々と打ち続ける光景に。おひらきになったのは2時過ぎでした。ダンサーは空間把握能力が高いので囲碁に向いているのかも、と思ったものです。
2014年10月16日
5月のこと(高見)
30年前を思い出したのもつかのま、もっと年月をさかのぼることに。
なんと40年以上も前に仲よしだった美佐子ちゃんと再会し、一緒にお茶を飲みました。
まだ小学校にあがる前、私は団地の4階に住んでおり、隣の階段を上った4階に、同い歳の美佐子ちゃんが住んでいました。階段は違っても、ベランダは隣接しており、私たちはベランダのついたて越しに、毎日のようにおしゃべりをしていました。
私はベランダにあったテーブルによじのぼり、ついたて越しに乗り出して「みーさーこーちゃん」と呼ぶわけです。すると少ししてカーテンが引かれ、おすましの美佐子ちゃんが「あら。亮ちゃんなの」と言ってサンダルをはき、椅子を運んできてその上に乗り、二人はいつまでも話し込みました。そうこうするうちに、どちらかのお母さんが「家に遊びにいらっしゃい」と声をかけてくれて、どちらかの家で遊んだのでした。
「亮ちゃんのうちには、青地に白い点々がいっぱい描いてある大きな絵があったでしょ?」と40年後の美佐子ちゃん。私は全く思い出せず「そうだっけ?」。「あったのよ。それで、これは何の絵なのって聞いたら、亮ちゃんは人の顔だって言うの。でも、絶対に顔じゃないのよ。だから、私、もう一回聞いたの。これは何の絵なのって。そしたら亮ちゃんは、やっぱり、人の顔だって言うのよ」。美佐子ちゃんは、なんだかすごい記憶力で、可笑しくてたまらない、というように話しながら笑い続けました。私は「人の顔……」と言ったまま、黙りこみました。その絵を全く思い出せません。「だけど、絶対、顔じゃないの」と美佐子ちゃん。「うちに帰って、母に話したのよ、顔じゃないのに亮ちゃんは顔だって言うのって。そしたら母が『亮ちゃんの家は芸術一家だから』って。でもね、私はあのころ、『音楽家』の意味はわかったけど、『芸術家』の意味がわからなかったの」そうして、また美佐子ちゃんは可笑しくてたまらない、というように笑い続けました。
ちなみに、我が家は芸術一家でも何でもなく、父が美大で教えていただだけです。
美佐子ちゃん一家は小学校にあがったころに、お父様の転勤で引っ越していき、たいそう寂しかったことを覚えています。でも、もっとよく覚えているのは、それから数年して、美佐子ちゃん一家が戻ってきた日のことです。私は出迎えるために表に出たものの、道で待つことはできず、団地の階段を少し昇った踊り場に隠れ、足元の格子のついた窓からこっそりのぞきながら待ちました。そしていよいよ美佐子ちゃん一家が到着。「わー!」と喜んだ一瞬後に、私は驚いて固まりました。ひとりっこだった美佐子ちゃんに、私の知らない「妹」が出現していたからです。美佐子ちゃん一家が通りすぎるのを、息を潜めて見守った後、階段を駆けのぼって家に帰ったものでした。
それから何年かして、美佐子ちゃん一家はまた引っ越してゆき、こんどは戻ってくることはありませんでした。今では3人の母となった美佐子ちゃん。子供たちが手を離れ、時間ができたからと、ネットでかもねぎショットを見つけ出して、昨年『福袋駅下車徒歩6分』を観にきてくれました。今年の『エッシャーの家』にはお嬢さんも連れてきれくれました。
そんな話やら、あんな話やらをしながら、再会のお茶の時間は瞬く間にすぎてゆきました。あ~楽しかった~と帰路につき、現在の我が家が見えてきたころに、私はハタと思い出しました。「あったあった! 青地に白い点々の絵!」。点々が、大きさや形を少しずつ変えながら、縦横に何列も整列していたその絵が、いきなりドーンと目の前にありありと思い出せたのです。そして、「これをこんど、美佐子ちゃんに人の顔だよって言ってみよっ」とたくらんだことも思い出したのでした。
2014年10月15日
4月のこと(高見)
4月は懐かしいひとときがありました。 木内里美さん作・出演・演出の『やまとなでしこ―番外編―』をアトリエ春風舎にて観劇。 『やまとなでしこ』は、木内ちゃんがライフワークにしている作品です。10年ほど前(定かではなし。15年ぐらい前だったかも)にも一度、東北に日帰りで観に行ったことがあります。そのときは、観劇後の帰り道がとてもつらかったことを覚えています。きっと、まだ木内ちゃんと一緒にまた芝居をやりたいという思いを捨てきれずにいたからだと、今思います。今回は、不思議なほど、穏やかな心持ちで観劇しました。相変わらずの天下一品のぼけぶりと、相変わらずの「あーあ、もったいないなー」と私が勝手に思う雑なところと、それを全部心穏やかに受け止めることができ、よくもわるくも年月が経ったのだなあと感じました。 公演の初日にはポストトークに出演させていただきました。 人前で話すのは苦手で失敗談は山のようにあるのですが、この日は、話し相手が木内ちゃんだったからでしょうか、あまり緊張もせず、なんとか普通に話せたような気がします。 人前なので「ちんりん」と呼ぶわけにもいかなかった木内ちゃんが、「高見さん」と発するたびに言いにくそうにしていたのが、なんだか嬉しかったです。
木内ちゃんと初めて会ったのは、私が10代のときですから30年以上も前。指を折ってみて、そんなに経ったのかと一瞬ギョッ。昨日のことのように思い出しますし、でも、そんなに経った気もします。
その年、私は劇団早稲田小劇場の研修生となり、同期の中では一番年下でした。同期生がみんなこわそうに見えた中で「あ。この人だけは優しそう。よかった」と思ったのが木内ちゃんでした。木内ちゃんは私を「亮子ちゃん」と呼び、それが「亮子ちんちろりん」に変わり、いちいち呼ぶときに長すぎるからという理由で(そもそも「ちんちろりん」の理由もわからないわけですが)「ちんりん」に変わり、以来、この妙ちくりんな名で私を呼び続けました。20名ほどいた同期生は次々辞めてゆき、女子で最後に残ったのは木内ちゃんと私。6年目に木内ちゃんが辞め、7年目に私も辞め、私は木内ちゃんに誘われてかもねぎショットに入ったのでした。

